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 *欲しい本 [#i788c7db]
 -Gesellschaft und Wirtschaft. Bildstatistisches Elementarwerk; das Gesellschafts- und Wirtschaftsmuseum in Wien zeigt in 100 Farbigen Bildtafeln Produktionsformen, Gesellschaftsordnungen, Kulturstufen, Lebenshaltungen (Bibliographisches Institut ag : Leipzig 1930).
 
 以下は,武蔵野美術大学卒団法人国際メディア研究財団 研究,武蔵野美術大学視覚伝達コースに在籍する大田暁雄(おおた あきお, ota akio)氏の原稿.現在はキャッシュのみ.サイトはリンク切れ."Gesellschaft Und Wirtschaft"で検索すると出てくる.
 
 No.02 視覚による世界の円環的把握
 ―ノイラートの「ゲセルシャフトとヴィルトシャフト」を巡って
 
 [サイトのキャッシュ:http://209.85.175.104/search?q=cache:wXOhluhQEZwJ:www.imrf.or.jp/~otakio/monthly200608/index.html+%22Gesellschaft+Und+Wirtschaft%22&hl=ja&ct=clnk&cd=5&lr=lang_ja&client=safari]
 
 > これは各テーマ別の100枚から成る、統計をもとに図表化された特大のダイアグラム集である。それらはウィーン・メソッドと呼ばれる視覚化の原則で構成され(後にISOTYPEと改名された)、現在ナヴィゲーション・サインなどでよく見かけるような(と言ってしまうとつまらないが)抽象化された、限られたセットのアイコンたちをユニットとして構成されている。戦時経済や社会学の研究から出発しているノイラートは、「戦争経済博物館」(1916.7-1918.11 ライプツィヒ)や自ら関わったジードルンク運動に連動する「ジードルンク博物館」(1923-1924)、その後身の「社会経済博物館」(1925.1.1- ウィーン)などにおいて、主に当時急増していた労働者階級に彼ら自身の社会を知ることができる装置を与えるために、視覚化された統計を使用した展示を組織していた。博物館といえば骨董品や貴重品を展示する場所を想像してしまいがちだが、ノイラートの博物館の概念はそうではなく、来訪者が現在の社会状況を知るための場であり、そのために統計に基づいた絵画的図表という方法を使用した。この博物館の視覚化のための職員たちの組織構成と、視覚化の原則は今なお非常に興味深い(トランスフォーマーの存在など)。だが、それを追記することはここでの目的ではない。
 さて、この2冊を並べてみると、バイヤーの統計図表を使った地図の部分が、ノイラートの統計図表と比べて、誰が見てもわかるぐらいのレベルで似ていることが分かる。そして、明らかにノイラート達の使っていたアイコンとまったく同じものまで使っている。さらに言えば、バイヤーのそれよりもノイラートのそれのほうが23年も遡るにもかかわらず、現在見てもノイラートのほうが依然として輝きを放っている。それは美的洗練度だけではなく、構成から見ても、ノイラートのほうがひとつ上の処理を行っている。バイヤーは模倣しきれてもいないのである。しかし、ウィーン・メソッドの原則を模倣しているにもかかわらず、バイヤーは私が文字を追った限り、この本の中でノイラートには何の言及もしていない。これには明らかに故意としか思えない隠匿の意識の現れではないだろうか。
 バイヤーの地図帖よりもノイラートのそれのほうが優れており正当な評価をされてしかるべきであるが、ここでバイヤーを貶めることが本稿の目的ではなく、ノイラートのこの世界文化地図帖の成立背景を探ることこそが本論である。
 >新世界図絵
 ノイラートのこの世界地図帳のアイデアはどこから来たのであろうか。そこで考えられるのは、1929年においてのポール・オトレとの出会いである。1929年夏、ノイラートはオトレの博物館「世界宮殿 Palais Mondial」(1910-)をはじめて訪問し、そこから数ヶ月の蜜月期間が始まった。オトレの世界宮殿はブリュッセルの50周年宮殿に「本の博物館」「学者協会共同図書館」「出版国際博物館」「普遍図像目録」「国際百科事典アルシーヴ」「女性ドキュメンテーション事務所」「国際図書館」などを収容した、国別の36ホールに分けられた特殊な博物館であり、世界の文化・歴史・自然・産業などを総合的に見ることができる博物館であった。ノイラートはオトレの講演を聴きにいき、そこで二人は「N.O.P. Novus Orbis Pictus ブリュッセル、ジュネーヴ、ウィーン・プロトコル」というプロジェクトを共同声明している。その使命は、世界中に分散された博物館ネットワークを作ること、および、いくつかのテーマに関する本の出版であった(地理学的、気候的、社会的、経済的地図; 世界全地域の歴史についての地図。個々の職業と、絞られた世代集団のための『スペシャリスト地図帳』。イメージと付随するテキストをもつ世界百科事典;子供の本シリーズ、子供の新聞、大人の新聞)。「Novus Orbis Pictus = 新世界図絵」とはコメニウスの『世界図絵』からの引き受けである。このプロジェクトは世界恐慌と、オトレ・ノイラート間の市場経済への価値観の相違によって分裂されたとヴォスギアンは説明している。
 ここで指摘したいのは、このプロジェクトと『社会と経済』のアイデアとの関わりである。『社会と経済』は1929年から製作が開始されており、1930年にライプツィヒ書誌協会から出版されている。そこには1928年から社会経済博物館のスタッフとして参加しウィーン・メソッドをデザイン面から補完させたゲルト・アルンツ[Gerd Arntz, 1900-1988]や、オランダのペーター・アルマ[Peter Alma, 1886-1969]、ヤン・チヒョルト[Jan Tschiholdm, 1902-1974]などのデザイナーたちが参加している。(その非常に高い洗練度は彼らから来ているだろう。チヒョルトはウィーン・メソッドにフーツラの使用を勧めてもいる)。そして、どうやらこの地図帳のプロデュースには実際にオトレと世界宮殿が参加する予定であったらしい。最終的に出版元のライプツィヒ書誌協会にその案は却下されているが、この地図帳にオトレがアイデアを与えていたことは間違いないといえる。その後もノイラートは『色とりどりの世界 Die Bunte Welt』という小さな世界文化地図帳を出版するなどする。ノイラートはソビエト連盟に招聘され「ISOSTAT」を設立、ウィーンで工作連盟ジードルンク展に関与、CIAM(近代建築国際会議)で視覚統計に関しての発表などをした後、オランダのデン・ハーグへと亡命することになる。
 ドイツ工作連盟、幻の「新時代 Die Neue Zeit」展の円環状のプログラム
 少し視点が変わるが、もうひとつの関連を示したい。それがドイツ工作連盟の「新時代 Die Neue Ziet」展である。ドイツ工作連盟は1925年から、オーストリア工作連盟[1912-]と共同で、1932年にケルンで開催することを目標とした「新時代」展の企画をし始める。当初はリヒャルト・リーマーシュミット[Richard Riemerschmid, 1868-1957]、後に建築家ミース・ファン・デル・ローエ[Ludwig Mies van der Rohe, 1886-1969]、そして最後に政治学者エルンスト・イェック[Ernst Jäckh, 1875-1959]がこの企画を担当している。
 「新時代」展の展示構想のダイアグラム
 Werkbund-Ausstellng "Die Neue Zeit" :Diagramm von E.Jäckh
 図版:『ヘルマン・ムテジウスとドイツ工作連盟:ドイツ近代デザインの諸相』より
 イェックの最終的な展示構想は円環状のダイアグラムで表され、その内容は以下のようなものであった。
 1)世界像 ― 空間 - 時間
 2)人間の形成 ― 人格
 3)材料と動力の制御 ― 物質
 4)建設と住居 ― 機能
 5)国土計画と都市建築 ― 組織
 6)国家の形成 ― 理念
 7)世界の秩序 ― 共同体
 の7部門に分類され、それらが集合してたがいに有機的な関連をかたちづくり、「世界の統一」が達成されるというプログラムである。イェックは世界の建築、産業、経済、芸術、科学を総合的に視覚化する「世界絵」(Neurath)、「新しい時代の百科全書」(Lotz)としてこの展覧会を組織した。ここにはオトレの世界宮殿やノイラートの『社会と経済』と共通する横断性をもった、総合的な世界像が見られる。オーストリア工作連盟に関わっていたノイラートはこの時期から工作連盟の機関誌「フォルム」に論考を載せ、この展示をめぐる議論に参加している。ノイラートとオトレはこの展示計画に共鳴し、自分たちの「オルビス子供ジャーナル」計画をこの「新時代」展の計画と提携させようとイェックに働きかけている。「新時代」展は最終的に実現されなかった(世界恐慌と工作連名内での分裂による)が、工芸・建築を通して肥大化する近代の「生活世界」の編成のヴィスタを拓こうとしているこの展示計画は、今なお非常に興味深い。
 イェックに関しての適したドキュメントが見当たらないのであるが、イェックとオトレは、おそらくこれが初めての関係ではない。国際的文献組織化・規格化運動「ブリュッケ」においての関与である。ブリュッケ運動は諸科学・諸学問の国際的な「架け橋」をかけようという非常に興味深いが現在無名な運動で(前回参照)、この参加者リストに諸科学者たちと共にオトレとイェックの名が記されている。さらにはヘルマン・ムテジウスやペーター・ベーレンスの名もある。彼らがどの程度の交流を持っていたかどうかはわからないが、そこで「新時代」展に見られるような、学問の総合性、国際性の必要性を少なからず共有していたとは考えられる(ムテジウスとアンリ・ヴァン・ド・ヴェルドたちのかの有名な「規格化論争」にも何かしら影響があるとも考えられる)。田所氏はイェックに対するフリードリッヒ・ナウマン[Friedrich Naumann, 1860-1919, 政治家]の影響をしているが、これらに限らず、既に「インター」という視点の必要性が世界的に高まっていたのかもしれない(この論証は今後の課題だ)。
 ブリュッケ運動において束の間の連帯を見せたオトレとイェックに加え、ノイラートを加えた三人が、1929年前後に再び結び目をつくっていることは、とても興味深い。世界の総合的な図的百科全書を制作・提示するという彼らの試みは、人間がいかに世界の社会的構造を知覚・把握し、社会を構築していくか、というデザインの根本的な問題をはらんでいる。彼らの行っていたことは単なる知識の収集などでは決してなく、社会を組織立てるために大衆に情報を視覚を通じて提示する、一段階上の社会性を持っており、さらに、アイソタイプ、規格化博物館や後に述べるプロトコル、ベーシック英語、普遍十進分類法、モノグラフ原理、ムンダネウム、世界都市などの方法論だけに着目しても、非常に近代的であり、今なお刮目に値し、彼らは現在希薄化されてしまった視覚化の社会性を持っているのである。
 この視覚を通じた円館的世界把握の思想は、オトレと直接的に関わり合ったパトリック・ゲデスや、思想的に影響を与えているフリードリヒ・ル・プレェやハーバート・スペンサー、オーギュスト・コントなどの社会学者などに遡ることができるが、それに関しては次回以降に割くこと
 
 
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 > ウイーンの社会学者オットー・ノイラート(1882-1945)は、いわゆる国際的なヴィジュアル言語で「インターナショナル・ピクチャー・ランゲージ」と呼ばれるシステムを確立した。そしてノイラートがゲゼルシャフト・ウント・ヴィルトシャフト博物館の館長時代に彼の手法に協力してグラフィック・デザインを担当したのがゲルト・アルンツである。このシステムが世界各国に広まる中で影響を受けたのがロシアのエル・リシツキー、ドイツのヤン・チヒョルト、オランダのウイリエム・サンドベルフらであった。
 ノイラートとアルンツのこの運動理念は「ウイーン方式」とも呼ばれる
 
 http://www.musabi.ac.jp/library/muse/tenrankai/kikaku/2002/lissitzky/foreignworks/1930_Gesellschaft_00.html
 
 
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